2008年2月26日火曜日

サハラ砂漠の夜明け/伊藤正吾 (センター北 伊藤内科)


 古都フェズ(Fez)からモロッコ東部のアトラス山脈をスエーデンのボルボ製の大型バスはゆっくりと登ってゆく。たくさんの人々が狭い旧市街(メディナ)にひしめき、活気ある町を作り出していた。9世紀始めにできた古都フェズを我々は抜け出し、一路サハラ砂漠にと進んでいた。町並みが切れても、片側一車線の舗装道路はどこまでも続くところをみると、モロッコという国はアフリカでも開発が進んだ国であることを意識する。

 同じアフリカでも赤道直下に位置するケニアを訪れたときに、国立公園から次の動物保護区までの数百キロを車で移動した時のことを考えていた。ケニアでは、地平線まで続くような真直ぐな道が続いているが、かつて舗装された道路は補修工事がされてないため舗装面が崩れ、大小さまざまな穴があちこちにできている。そのため、道路の路肩部分を走ったほうが車への衝撃が少ないため、サファリ用のRV車は道路の穴の少ないところをめがけて道路の右端から左端まで、道路幅全てをフルに利用し、砂埃を立てながら数時間以上猛烈な勢いで走っていたことをぼんやりと思い出していた。

 フェズをたってから数時間は経ったろうか。長く大きなカーブをまわりながらバスは進む。周囲にあったわずかな緑はなくなり赤茶けた崖と、荒れ果てた岩と砂の世界になって行く。このあたりは海抜2000メートルだ。高原とでも言うのであろうか平坦な場所にでる。まるで、アメリカ西部劇にでてくるような景色である。モロッコを題材にしたり、モロッコで撮影された映画は数多くあるが、イタリア西部劇であるマカロニウエスタンの撮影もここで行われたのではという雰囲気の場所である。

 時おり対向車とすれ違う。どの車も砂埃であまり綺麗とはいえない。風で砂塵を巻き上げるためだろう。途中で雨が降りだした。しかし、バスの窓は被った砂塵にポツポツとした水滴がつく程度で雨はあがってしまう。道路の周りには良くみると、水溜りがある。でも緑色の草はない。西部劇で良くみかける、枯れたサボテンのような植物がところどころにみられる。それを求めてだろうか、民族衣装を身につけた人が羊をつれ移動している。車の中はエアコンが作動している。外の状況は皆目分からない。暑いのだろうか?高原なので涼しいのであろうか?

 実は、この少し前にフェズの近くにあるローマ帝国の遺跡を見学してきたのである。雲ひとつない、快晴といっても青空の日本晴れとは趣きを異にし、なんとなくボヤ-とする炎天下のなかであった。身体は暑さでクラッとする状態であった。ガイドの説明を上の空で聞き流し、紀元前40年から続く石畳を歩いていた。崩れかかった当時の建物の一部であったと思われる石が転がっており、残った石組みを見ているとローマ帝国時代の人々が生活していた当時の様子がなんとなく彷彿されてくる。しかし、2千年前の人々の生活に思いを馳せてばかりはいられなかった。暑さが先にたち、心の中では早くエアコンの効いたバスに戻りたいと思っていた。でも、ガイドの説明は続く。ローマの貴族達の住居跡を横にそれると一般庶民らが集まっておしゃべりしながら、洗濯をしていたという石で組んだ水場にでる。むろん現在は一滴の水も出ない。洗濯物を洗うため石に衣服をこすりつけた跡と説明をうけた、丸みを帯びた石の凹みが幾つか残っている。ガイドに水を得るのに井戸を掘ったのかと尋ねると、すぐ目の前にある小高い丘から水路を通して流していたという。その丘には、多少の木がありオリーブの木が今では植えられている。凱旋門を横にみて遺跡をやっと後にする。やたらに風が強い。風が汗を吹き飛ばす。だから汗はほとんどでない。バスがみえた。バスの中に入ると涼しかったが、すぐに汗が額から流れ落ちた。外の気温は43度との話であった。しかし、この頑張り観光が後になり仇となってしまったようである。ローマの遺跡を後にまたバスに揺られ、しばらくしてから昼食をとったが、ツアーの同行者の多くはあまり食欲が出ないようであった。

 サハラ砂漠はまだ遠い。バスは荒涼とした高原をぬけ赤茶けた土や砂に覆われたアフリカ大陸を進む。ところどころに泥で作ってあるような茶色の壁に、窓穴がある住居をみる。人が住んでいることがわかる。バスの反対側の窓に目をむけると、先ほどと同じような茶色の壁の家々がいくつか並んでいる。よくみると、その家の奥には、やしの木であろうか、一部に緑の葉をつけた木々がならんでいる。その先には水場がありそうだ。オアシスなのだ。

 オアシスは砂漠の中にある池を中心とし、動物や鳥たちが群れている緑豊かな楽天地と想像していたため、現実のオアシスを目の前に見るとその差を知り愕然としてしまう。泥と砂の世界、決して美しい世界とはいえない。でも人が住むことができるのである。しかし、そのオアシスの水はいつのまにか土の中に消えてしまう。再び、周りは赤茶色の砂だらけの世界だ。舗装道路ははその中をすすむ。道路に沿ってマンホールのような造作がある。何キロメートル以上も続いているようだ。ガイドの説明によると、地中には太いパイプが埋設され水が流れているとのこと。それに接続し地上に出ている管がマンホールのような蓋だった。この先の町に必要な水を補給しているとのことであった。このあたりには、オアシスなど見渡す限り見られない。見られるのは、地平線に隠れるあたりにある禿山の崖ぐらいだ。夕刻になってきた。外の暑さも幾分か和らいだようだ。建物の数が増えてきた。行き違う車の数も少しずつ増える。サハラ砂漠入り口の町エルフード(Erfoud)にバスは入ってきた。

 バスはまっすぐにホテルに向うと思ったが、ガイド付観光旅行である。お土産屋に行くという。長時間のバスの旅、それ以上に猛暑のなかの遺跡観光が影響したと思われ、既に数人は体調を壊していた。バスは彼らを先にホテルに送り、あとで我々をみやげ物屋まで迎えに来ることになった。砂漠への入り口の町にあるお土産屋、何があるのか興味をもった。店の裏にまず案内された。そこは大理石の加工工場であった。研磨された大理石に表面には、なんと三葉虫や貝の化石があるではないか。サハラ砂漠は有史以前には海の底だったのである。正直、驚きであった。アフリカ大陸をドーハからカサブランカまで横断したときに、飛行機の窓から遥か下の地表に見られた白い砂の影は塩だったのであろうか。だから、植物があまり育たないのだろうと自分なりに結論を出してみた。

 バスが迎えに来た。お土産が大理石では荷物がますます重くなる。早々に店を引き上げることとなった。既に陽も落ちかかっている。バスは町中から離れ、砂漠に向ってしばらく進むと、そこには茶色の土塀をめぐらした瀟洒な建物があった。バスを降り、建物に入ると狭いうす暗い部屋がある。アラブの精神である小さな噴水が置かれ、たらたらと水が流れている。ホテルの受付もなんとなく豪勢ではない。部屋はひろいが、エアコンはどうも効きが悪い。今日の汗と疲れを流すため、シャワーを浴びる。お湯が出る。良かった。合格だ。しかし、シャワーをあび、出ようとすると茶色のお湯が、バスタブにそのままだ。横にはトイレが備えられている。用をたして水を流すが、水が出ない。ケニヤの旅行でも同じような経験をしたが、我慢しかないのであろう。今回のツアーもいつもと同じくエコの旅であった。

 明日はいよいよサハラ砂漠だ。今回のモロッコ旅行のハイライトだ。砂漠に昇るアフリカの太陽を見るのだ。興奮の絶好調。なかなか寝付かれない。でも、なんとなく寒気がする。そのうち、お腹の中がゴロゴロとなんとなく様子がおかしくなる。急げ、トイレだ。そうだ。水は出ないのだ。見るとシャワーには長めのホースがついている。早速、トイレまで引っ張ってみる。届いた。シャワーからの水は勢いよく流れ出る。壁取り付けのシャワーでなくて良かったと安堵した。

 翌朝4時過ぎにはサハラ砂漠に向って四駆車のランドローバーで出発。身体はふらつき加減であるが、お腹は大丈夫のようだ。車は途中から道無き砂地を駆けてゆく。まわりはまだ闇の中だ。車のライトが周りを照らしだすが、何にも無い。一時間以上は走っただろうか。まだ日は昇っていないが、遥か遠くに灯りが見えた。ぐんぐんと近くなる。メルズーガ(Merzouga)の村だ。車を降りると現地語で人々が騒いでいる。なんとなく引っ張られるようにしてその中に導かれた。みると周りにはたくさんのラクダが座って我々を歓迎しているではないか。ラクダの案内人が手を取り、このラクダに乗るように指示する。現地人のベルベル人なのであろう。映画の中でみたことのあるマントのようなアラブ独特の民族衣装を羽織っている。思い切り足をあげ、股をひらいたつもりで、暗いなか初めてラクダにまたがってみる。うまく乗れない。BMWのシートとは大違いだ。やっと乗ったと思うと、突然座っていたラクダが起き上がったではないか。落とされる。必死で両手、両足でラクダの身体にしがみついた。案内人はラクダにかけてある鞍の取っ手を持てといったらしい。なんとか姿勢を立て直し、戦国時代の武将の如く毅然としラクダにまたがったつもりであったが、歩き始めるとまだ恐怖の連続に落とし込まれた。

 ラクダの足は長い。ラクダに乗ると二階から景色を見るような感じだと来る前に説明を受けていた。が、周囲はまだ日が昇る前の砂漠。何も見えない。ラクダに跨っても、聞いていたほどの感激はない。ラクダの足先、馬でいうひずめの部分はどうなっているかご存知だろうか。足の指先は二つに割れ、その背側はやわらかそうな薄い体毛で覆われている。その指を開き砂の中に足が潜らないように、うまく動かしている。ラクダから落ちないように、必死にしがみついていたので周りの景色はあまり目に入らなかったが、ラクダの足をじっくり観察する羽目になった。

 メルズーカの村からラクダに乗って、ゆっくりと動き始めた。2,3頭のラクダを紐で結び、ベルベル人の案内人が引きながら歩いて行く。月の砂漠をはるばると、ラクダに揺られ、行きました。と昔の童謡が口の先まで出かかるが、乗っているラクダが急に砂に足を取られたり、下り斜面では早くなりすぎ前を歩くラクダのお尻に鼻をぶつけたりするため、ラクダにしがみつくのが精一杯であった。その間、ラクダの足先のみ観察すること数十分、何時の間にか周りも白々と明るくなり景色も見えるようになる。ついにサハラ砂漠の砂丘に着いた。ラクダが足を折って、座ってくれる。地面に片足をおろす。砂だ。足が砂のなかにもぐる。ようやく両足をラクダから降ろし、砂の上に立った時には、周りにいた仲間はすでに砂丘の頂上めがけ登っている。慌てて後を追いかけたが、履きなれたとはいえ日本から履いてきた革靴の中は、すぐに砂でじゃりじゃりとなる。急いで砂丘を登りはじめたが、あと1メーターの斜面が急すぎて登れない。そのとき二人のベルベル人が手をさしのべ、稜線へと引っ張りあげてくれた。瞬間、チップをどうしようかという思いが頭の中をよぎった。でも、目の前に開けたサハラ砂漠の景色を見たとたん邪念は飛んでしまった。

 気がつくといつのまにか、たくさんの観光客が砂丘の頂きに集まっていた。まもなく砂漠に太陽が昇る。誰もが、今か今かと東の空を見ている。しかし、空には雲はないのに、太陽が見えない。気がつくとすでに太陽は地平線の上に姿を現し、朝となっていた。しかし、太陽の色がおかしい。白いのだ。月と見間違えたのではないのか、目を疑った。日本の日の出は眩しいほどの赤、ケニアで気球から見た太陽はサバンナからのぼる真っ赤に燃えた赤だった。でもここ、サハラ砂漠の太陽の色は白だった。きっと、遥か遠くの砂漠では砂塵が舞い、吹き上げられた砂を透して太陽を見ていたため白く見えたのであろうと想像した。ここサハラ砂漠の砂の色は赤っぽい。手に持ちあげると、指の間から砂時計の砂のように、さらさらとこぼれ落ちてくる。湿気が全く無いのだ。ツアーの女性仲間がベルベル人の衣装をまとい、うれしそうにサハラの砂丘の上を駆け回っている。砂に足をとられ、転倒する。服の間から全身に砂が入り込む。でも掃えば、砂はすぐに落ちてしまう。

 日の出を見ることは出来なかったが、サハラ砂漠の中に遊んだという感慨を胸にいっぱいにして、村に戻ることになった。砂丘から降りる。赤色をした砂丘の頂上からベルベル人が着ていたガウンをソリ代わりにして、砂の上をみな楽しそうに滑り降りている。でも、足を痙攣させてしまった私はソリに乗り遅れ、自分の足でサハラの砂を踏みしめ、サハラの感慨に酔いながら砂丘の頂きから一人降りることにした。

 さて、再びラクダにまたがり戻ることになったが、砂丘から村までは下り斜面の連続だ。落ラクダしそうになり、思わず叫んでしまう。ベルベル人の案内人が、ラクダのコブの後ろに座るよう指示をする。ラクダの背中にはコブがあるが、一つコブラクダと二つコブラクダの二種類がある。ここサハラ砂漠のラクダは一つコブラクダである。今まで、コブの前に座っていたため、前かがみになり不安定になっていたことがわかり、座る位置をコブの後ろにずらし、ついにラクダ乗りに開眼したつもりになった。しかし、ここからは更に急な下り坂だ。ラクダは砂を踏みしめブレーキをかけるが如く一歩一歩進む。股間の前にはラクダのコブ。痛みの声は出さずに、涙を我慢し、どうやら村にたどり着いた。

 村にもどり、今来たラクダの足跡を振り返る。行くときは暗くて何も見えなかったあたりは赤色の砂で埋め尽くされている。風により作り上げられた砂の盛り上がりは砂丘となり、美しい滑らかな曲線を描いている。砂丘の陰になるあたりは黒色の影となり、色のコントラストが美しい。サハラ砂漠の入り口の景色でこれだ。見える砂丘の奥には更に広大な砂漠が横たわっているはずだ。今は、風は無く、音も全くない世界だ。ここは地の果てアルジェリアという歌があったが、ここはアルジェリアより更に遠い地、モロッコのサハラ砂漠なのだ。アラビアのロレンスという映画のなかでのシーン、砂漠をラクダや馬で走り回る場面が思い出される。あの砂漠が目の前に広がっているのだ。期待してきた以上の世界だった。サハラ砂漠の砂の上に立ったという感激以上に、胸にこみ上げるものがあった。

 診療所を開設し、臨床医師として新たな道を進み始めたのを機会に、家内と共に海外旅行にでかけている間に10年以上が過ぎてしまった。いつのまにか年を重ねてしまい、ツアーに参加すると自分らが最年長者のこともある。でも旅は、年齢に関係なく、いつも新たな経験を、心には感激を与えてくれる。あと何年このような楽しい旅を続けられるか不安に感じる時もあるが、残り少なくなった人生まだまだ楽しみたいと思う。

2007年11月26日月曜日

緑道ジョギング / 木村明(木村泌尿器皮膚科)

私は青葉区に住んでいます。市が尾駅・江田駅・あざみ野駅のどこからも徒歩20分ぐらいのところです。休診日の木曜は、クリニックまでジョギングで往復します。市が尾駅近くから鶴見川沿いの青少年サイクリングロードに入り、ジョギング開始。川和町に養豚場があるのは御存知ですか?

豚をみるといつも千と千尋の神隠しの主人公の両親を思い出します。千代橋まで走り、バス通りに沿って、加賀原バス停へ。加賀原バス停から早渕公園まで都筑区緑道が8.7km続いています。詳しい案内は「都筑の緑道・公園ご案内」をご覧下さい。緑道のジョギングは気持ちがいいです。

ここは御影橋。緑道は区役所通りの下を潜ります。車が走る道とはすべて立体交差していて信号待ちなどはありません。スポーツクラブでベルトコンベアの上を走っている人がいますが、あれは同じ場所で足を動かしているだけで景色が変わるわけではなくつまらないと思います。しかも、ベルトコンベアを電気で動かしているのは地球に優しくありません。人がカロリー消費のためにベルトコンベアの上を走るのなら、ベルトコンベアを人力で能動的に動かして、発電できる装置をつくるべきです。11月22日木曜日は、加賀原バス停から茅ヶ崎公園までジョギングで、センター南のクリニックに行き、雑用を済ませたあと、センター北の医師会に顔を出しました。早渕川の北側も緑道があります。中川駅からのちめ不動までの4.1km。

11月22日木曜日は、北側の緑道には入らず、早渕川沿いをジョギングして、あざみ野経由で帰宅しました。緑道の良いことは、各公園にトイレがあること。私はお酒が大好き。休診日前日の水曜日は結構飲みます。そのため、ジョギングの最中に突然お腹の調子が悪くなる事があります。各公園にあるトイレはよく管理されていて、便器は汚れておらず、トイレットペーパーも常備されています。

皆さん、健康管理は、緑道ジョギングで。

2007年11月22日木曜日

21世紀のキーワード EBM / 宗定伸(あすなろ整形外科クリニック)

Evidence Based Medicine、略してEBMという言葉が21世紀に入ってからの医療のキーワードの一つになっています。これは科学的な根拠の上に成り立つ医療、という日本語で説明され、統計学的にも意味のある差が出ることに基づいて医療を行っていこうという国際的な流れなのです。

経験だけで、「こっちの方がいいから」という理由ではなく、「こうすればこうなる」という証拠があることが重視されます。自分は、基本的には否定はしませんし、EBMの重要性は認識しているつもりですが、これは良いところと悪いところを備えていて、両刃の刃なのです。医学というのは個々の人間を扱う以上、統計学的なばらつきが大変多く、数字でくくってしまうことは、例外的な病人を無視していくことにもつながりかねません。

実際、医療に関係した裁判が増えてきたため、自分のやった医療行為を正当化する根拠として準備されているケースが多く、患者さんを治療する目的からはかけ離れた使われ方をしているものもあります。ある患者さんには自分が効果を認めている治療をし、別の患者さんにはそうではない治療をして、その差を論じることで治療方法の有用性が統計学的に証明されるわけですから、本来医者としてそのようなやり方はできないはずです。

もちろん、そのような比較試験では医者は自分でもどちらの方法が患者さんに行われたかはわからないようにして行われていますので、積極的な良心の呵責に悩むことはないでしょうが、薬の治療では可能でも、手術では不可能です。わざと手術で操作をしないでどうなるかを経過観察するということはありえません。となるとこれだけ良くなったという結論を出しても、比較する対象がないので、あとは数学的な操作で有意な差を作るしかありません。つまり、治療の正当性の根拠ではあるが、その正当性には人為的な部分が少なくないこと、そして一人一人に同じ病名がついても年齢・性別・生活習慣・その他もろもろのことから、治療方法を変えていくことにある程度の経験は必要であるということを忘れてEBMをおしすすめてはいけないということです。

関節リウマチという病気も個人差の大きい病気で、教科書に書いてあるような典型例の方が少ないと感じています。従って、きちんとしたEBMは必要です。患者さんがどうなるのか考えるための情報は、治療をしていく出発点として絶対に必要なのです。しかし、その後はその時の状況に応じて臨機応変に考える柔軟性がないと、個別の対応ができません。これには経験が必要です。

いくつかある抗リウマチ薬は、どれもそれなりに効果があることは証明されてはいますが、どれが一番良いという研究はありません。いくつかの薬の併用療法についても、効果があるという報告もあれば副作用のリスクの増大の報告もあります。しかし、早期の治療が効果を出すことはわかっており、ゆっくりと考えている時間はありません。となると、各医師の経験から使いやすいものを選択していくことになります。

特に考慮されるのは安全性でしょう。人間そのものはアナログであり、ものすごくファジーな生き物です。そこから学問、つまり最大公約数の知識を導き出すことは、大変にいろいろな問題と困難を含んでいます。
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